距離についての考察
Episode.1 「月」

距離についての考察シリーズ Episode.1 「月」
「まんまる目玉の海のなか みんな溺れてひとりきり 乾いた言葉を潤す水面は 夢か現かそれとも風か」

と、かつて道ですれ違った少女が歌っていたように、視界はいつだって’わたし’だけに開かれている。

カフェオレを飲んでいる私の2つ隣りのテーブルに世界地図を広げた男女がいる。
女の左手には光る薬指。新婚旅行であろうか、女は紙を指差し楽しそうに時折目を細めて男と目を合わせる。
男は相槌を打つものの、下に目線をやると左足は細かく上下に揺れていて、退屈している心のうちが見えた気がした、5月の夕方、駅前のカフェにて。
コップを空にして店を出る。今日は肌寒い。

間の季節というものは、いつも心地よくて、そしてどことなく切なく感じる。
桜の花は散り、新芽は開いて艶っぽく、緑の無知さが町中に点在していて、ついつい歩みを止めてしまうほど。
(と言ってしまうと、なんだかセンチメンタルに浸っているような自分がなんとも卑しいので明日からは分をわきまえて歩きますよ。)
ちょうど上を見上げるとまあるい月が浮かんでいて、ああ、昔はあの黒い影にウサギを見てたっけなあ。
日本では餅つきウサギの物語が細々と続いているように、
どこかの国ではカニに見立てていたり、ある国では女性の横顔と言っていたり。

けれどもアポロ号が月に降り立ってもウサギはいなかった。
当然巨大な女性の顔があるわけでもなく、乾いた地面が広がるばかりだったようで。
その事実を知りながらも、幼い私は月を見上げるたびに「ウサギ」を見ていて、虫歯あるからロケットには乗れないしなあと、
現実から目を背けたまま、田んぼに囲まれた細長いアスファルトの地面に立って「ウサギのいる月」を見ていた。

私と月。

その間にあるのは物理的な距離の問題ではない。
想像できる感覚と想像できない感覚。
人はそれぞれに線の上を歩いていて、それは決して重なることなく、
生まれ育った時代、環境、積み重ねた言葉のやり取り、身ぶり手ぶり、身長、体重、視力・・・
個々のサイズ感で目の前の光景は移ろいゆく。
いわゆる固有の身体によって見えるものや思想は異なるわけで、目玉の海の中にはその人だけの記憶が漂っているのだ。

つまり私の経験は月面着陸した彼らに及ばないのである。

【関心は宇宙よりも我身中にあり。】

さて、話は戻して字数もそこそこに。
あのカフェにいた男女は無事に飛行機に乗ることができるのだろうか。
人様の未来にあれこれ想像を膨らませることほど野暮なことはないが、
コーヒーとミルクが混じり合うような程よい視線を作るには、やはり言葉のやり取りが欠かせないように思える。

今宵の月は、ただ光る球体に黒い染みがついているばかりである。

Gökotta(ヨークオッタ)
記録者。ある土地・コミュニティの中でしか生まれ得ない言葉や物語、光景の採集を行うことで、記憶の循環を多角的なアプローチで解釈していく。 https://www.song-123.com