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現代は電波の波に乗って言葉をすぐに送れる一方、
物理的な距離というものは未だに健在の世の中である。
ある日、とあるプロジェクトを思いたってモロッコの友人Aに手紙を2回送ったことがあった。
1通目は宛先が間違っていて、それは送った時の記録写真で友人に指摘されて気がついた。
2週間後くらいに、宛先をきちんと確認してから2通目を送った。
つまり無事に届けば同じ内容の手紙が2通届くことになる。
だが1ヶ月経ってもAの手元には1通も届かないそうで。
郵便局にいたハスキーボイスガールの「10日間ぐらいはかかりますかねえ」という声を思い出す。
なんでかねえ、と思いながらも、まあいつかは届くだろうと放置していたら、
ある日私の家の郵便ポストに白い封筒が入っていた。見覚えのある切手の並びがそこにはあった。
【宛先不明で返送】
約半年後のことである。
すぐさまAに連絡をした。
「面白い出来事があったよ。」
写真とともにオンラインメッセージを送ると返事がきた。
一度モロッコに着いたこの1通目の手紙にはいくつかスタンプが押してある。
モロッコの匂いってどんなんだろう、と鼻を近づけてみたが当然無臭。
Aの家にはたどり着かなかったけれども、現地の人々の手には触れていたはずで、
この手紙にカメラがついていたらなあと、心底思った出来事であった。
たったの数百円で海を渡ることができる手紙が羨ましくもあり、
このまま一度も日本を出ないまま、
想像力だけで言葉の旅を続けるのも無防備な逃避行のようなもので。
「オーケーグーグル。ここからモロッコまでの距離を教えてちょうだい」
「オンラインで夢幻旅行。目が覚めれば全てなかったことになるのでご安心を」
手紙の中身は届かずに、届かなかった事実に対する返事は4時間後に受け取った。
そうしてまたディスプレイ上の言葉のやり取りに戻される。
もはやこの現代に正しい距離なんてものはありゃしない。
それでも手紙を好んでしまうのは、その距離に互いの現実を見るからであろうか。
かつて和歌を送っていたオフライン時代では「待つ」ことで何を得たのだろう。
「そなたは還ってきた自分の言葉に何を見るのじゃ」
私の部屋にたどり着いた手紙は相変わらずそのままで、封を切る誰かを待っている。