楽譜という設計図から広がる音の世界
「暇と、無駄と、芸術」

2020.03.27馬場 睦

こんにちは。馬場睦(ばばむつみ)と申します。ピアニストとして、主にクラシック音楽を演奏したり教えたりしています。

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突然ですが、「無駄」とか「暇」という言葉、私は大好きな言葉なのですが、皆さんはいかがですか?どちらかというとマイナスなイメージのほうが強いかもしれません…。でも私は、これらは私たち人類のみに与えられた貴重な財産だと思うのです。

「無駄」について
例えば今、私の手元には一つのマグカップがあります。側面にはティーカップに淹れられたコーヒーの写真がセピア風にプリントされており、飲み口の縁は黒のラインで囲まれています。でも正直、これらがなくてもマグカップとしての役割は充分果たしますし、言ってしまえば取手すらなかったとしても、液体を汲んで飲むことは可能なはずです。
でも先人たちは利便性を追求して器に取手をつけ、利便性を超えてデザインを施しました。

ここに芸術の原点があると思います。

「暇」について
長い歴史の中で人類は、言葉を手に入れたことにより集団で生きる道を選び、農耕、分業を発展させ、定住するようになり、貯蓄を可能にし、全員が明日の食べ物のために大地をさまよい生きる為の労働を続けなくても良くなりました。つまり、「余暇」を手に入れました。

それに引き換え多くの野生動物は、常に生きることのみを目的とし、いつ死が訪れるか分からない状況の中で生きています。そこに「余暇」はありません。また、死に関しては、人間であっても、戦地や大きな自然災害の際にはそこに「余暇」はないと思います。今この瞬間も、そういう場所がこの地球上に存在している事は事実です。

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例えば、大人に守られている子どもたちは、生存に関する面では暇です(彼らなりに必死に生きているに違いありませんが)。私は小さな子どもに音楽を教える事もあるのですが、彼らを見ていると、「暇」の過ごし方が本当に上手だなぁと感心してしまいます。紙とペンさえあれば思いのままに線を走らせ初め、積木があればそれは彼らのお城に変身します。

「暇」を許された人間は、「創造」し始めるのだと思います。

戦争や災害がなく、食べ物にも困らず、生存にとってはある意味「無駄」なことに時間を割ける「暇」があるという事は、平和で豊かな証です。そして先人たちはその与えられた時間の中で多くのものを「創造」してきました。それは利便性や効率性を超え、また宗教的、権力誇示などといった集団統率的な意味合いも超え、戦うためにではなく、また、時には娯楽的意味合いすら超えて、”ただ”「創造する」という事、「芸術」は、人間に与えられた、感謝すべき最たる特権だと思えてくるのです。
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なんだか壮大な話になってしまいましたが、今回ひょんなご縁からこちらへ文章を書かせて頂く機会を頂きました。建築分野のホームページですから、何かしらそれに関係のある話題を…ということでしたが、関係があるどころか音楽と建築とには、上述の点で互いに共通点が面白いほど沢山あるではありませんか。有数の大聖堂のあの複雑で壮大な様相と、1時間にも2時間にも及ぶ交響曲との間に、共通点を見出さずにはいられません。

今回は、それを「設計図」というキーワードを元に、どんな風に「創造」がなされていくのか、建築と音楽のそれぞれの共通点や相違点を挙げながら、話題を深めていければと思います。

今日の晩ご飯にも明日の仕事にも全く役に立たない話で大変恐縮ですが…そんな事をああでもないこうでもないと思考を深める、至福の暇な時間を共有できれば、そして欲を言うのなら少しでも面白いと思って頂ければ幸いです。

馬場 睦
1990年生まれ。福島県出身。ピアニスト・音楽教育家。2019年渡独し、オランダのピアニストMarien van Nieukerken氏の元で研鑽を積む。 2020年秋人生初のソロリサイタル開催予定。 Facebook: https://www.facebook.com/profile.php?id=100022248390227