私と一緒に沈没してみない?

私と一緒に沈没してみない?

『沈没家族』( 2017年公開映画。2019年4月より全国公開。監督:加納土)という映画をみた。
婚外子として生まれた男の子、土くん。土くんの母親は、共に子育てをしてくれる人を募集し、そこに集まった血の繋がっていない人たちで、共同生活をする。そんな生活を、大人になった土くんが振り返るというドキュメンタリー映画である。
この映画を見ると、「家族って血が繋がってたら家族なんだっけ?」と思ってしまう。家族や暮らし方への価値観が揺さぶられる。

2016年。私は、友人たちとシェアハウスを始めた。シェアハウスという言葉は、使い古されていてあまり好きでない。物理的にハウスがシェアされていても、必ずしも心理的にハウスがシェアされているとは思わないし、そんな簡単にシェアなんてできるものじゃないと思う。
そんな中、『沈没家族』を観て、「沈没家族」という言葉がとても気にいった。沈没という言葉は、一見マイナスの言葉に聞こえるが、家族という単語が後ろにつくことで、計り知れない繫がりを意味しているように感じるからだ。心身ともにシェアされているように。「私と一緒に沈没してみない?」そんなプロポーズは素敵だ。してみたい。
そんな素敵な名前を私の住んでいる家にもつけられたらと思うが、今はまだ思い浮かばないので、「シェアハウス」という言葉を借りることにする。

私が、シェアハウスを始めたきっかけは、「学校ないし 家庭もないし 花を入れる花瓶もない」(電気グルーヴ「N.O.」の歌詞)かったからである。要は、お金がなかった。お金のない私が、東京で暮らすためには、誰かと場所をシェアするしかなかった。シェアハウスをしたことがない子に「よく他人と一緒に住めるね」と言われることが多い。沈没しあえるシェアをしているわけでない私にとって、その言葉はまさにである。でも、そういう子の大半は、家族とは仲が良かったりする。(偏見かもしれない)
家族だって自分とは違う人間なのだから、あなただってシェアハウスできているじゃない。と私は思ってしまう。物理的シェアなしで暮らしている人なんてごくわずかなのだ。でも、きっとその子たちは、家族に限らず一緒に沈没できるような人をどこか他のところに見つけていたりするのかもしれない。

いつかはプロポーズしたいし、されたい。シェアハウスなのか、違う場所なのか。それはまだわからないけども、きっとふとした瞬間にくるものなのだろうと思っている。

フジシタ アヤ
1990年生まれ。会社員。2014年より高山建築学校にかよう。