下ノ畑ニ居リマス

宮沢賢治を表す肩書きは何が適当なのだろうか。
農民、作曲家、音楽家、詩人、教師、思想家、作家など彼を表す肩書きは多くある。
彼は1つの肩書きで言い表す事ができない。
多くの人は彼の一面しか知らない。
私もその一人である。

数年前に岩手県花巻市に行く機会があった。
花巻は宮沢賢治が生涯を過ごした場所である事を思い出し、「賢司先生の家」羅須地人協会を訪れた。
 

特別な作り方をしている訳でも、特別な材料を使っている訳でもない。
木造2階建てで、1階は10畳と8畳の2室、2階は床の間付き8畳の和室となっている。
一見すると変わったところは見られない建物である。

しかし、違和感がある。


入るとすぐに教室のような場所がある。
この建物は私塾兼自宅として使用していたらしい。
ここで授業を行っていたのだろうか。
大きな窓が特徴的でたくさんの陽の光が入ってくる。
当時としては恐らく、この窓の大きさは珍しく、また高価なものであっただろう。


廊下を抜けて次の部屋へ向かうと


8畳の和室である。
2面が縁側に面しているため、外が良く見える。

いや、むしろ見えすぎている。
1階のどこにいても外が見える。

中の人は外にいる人に気がつき
外にいる人は中の様子が見える
私塾をしていると知って、そんな日常を想像した。

羅須地人協会は宮沢賢治が教師を辞めた後に開いている。
辞めた理由は諸説あるが、一説によると「生徒に農民となれと言っておきながら教師として俸給生活を送るのが嫌だった」だそうだ。
教師として何かを教えるのは好きだったが、自分のしている矛盾が許せなかったのだろう。
教師は辞めたが私塾として生徒を自宅に招き、農業の未来の為に多くの人を育てた。
加えて「農業を営む上で音楽などの芸術も必要だ」と『農民芸術概論綱要』の中で説き、自ら作曲、演奏し生徒に音楽を教えたそうだ。

現代の人から見ても変り者に感じられる。
当時の農民の人がこれらを全て快く受け入れて実践したとは思えない。
しかし、外から中が見える家なら農民が学び、芸術活動を行う事は日常の風景になるかもしれない。
彼が目指したのは、そういう日常だったのだろうか。
 

彼が家に不在の時に、彼に会いにきた人が迷わない為に玄関に
「下ノ畑ニ居リマス」
と書き残されている部分に、彼の柔らかな優しさと強い信念を感じた。

おわり

下畑 オリー
平成生まれ。東京育ち。猫と海外と写真が好き。誰にも負けない子供時代のエピソードを複数持っているが、滅多なことでは明かさない。